ぶんどう物語 - I N D E X -
 ■1 蛍を追いかけて -私の原風景-
■2 アメリカ留学
■3 外務省へ(その1)
■4 外務省へ(その2)
■5 危機管理その1 −大韓航空機撃墜事件−
■6 危機管理その2 −メキシコ地震−         (続く)
  3 外務省へ(その1)
 

外交官試験

  昭和53年に、大学を卒業して、外務省に入った。外務省に入るには、外交官試験に合格しなければならない。当時は、外務公務員上級試験と呼ばれていた。その後、外務公務員I種試験と改称され、平成14年には外務官僚の特権意識を作り出している元凶だとして、外交官試験そのものが廃止され、国家公務員I種試験と一本化されることになった。

  確かに、外務省にとっては、外交官試験にはいろいろメリットがあった。第一のメリットは、霞ヶ関のキャリア官僚の序列から超越することができたことだろう。

  霞ヶ関のキャリア官僚には明確に序列がある。なぜなら、外務官僚以外のキャリア官僚は、すべて国家公務員上級試験を受験し、その成績がすべて公表されるからである。そして、国家公務員上級試験の成績順に一流官庁に採用されていくからである。しかも、厄介なことに、大蔵省などの一流官庁は、同時に大学の成績も重視するから、どの役所に採用されたかで、国家公務員上級試験の成績から大学時代の成績まで大体分かってしまう。

 ところが、外務省だけは、外交官試験という隠蓑(かくれみの)があったために、こうしたキャリア官僚の序列から超越することができたわけだ。大学時代にさんざん遊んで、優が一つもなくても、外交官試験にさえ合格すれば、外務省に入れるわけだから、大学時代にあまり勉強しなかった学生にとっては、一発逆転が可能なありがたい試験だったのである。

  ちなみに、私が外交官試験を受けたとき、二次試験の幹部面接の時に、「君の成績は悪いね」と聞かれて、「可のチンイツを狙いましたが、良と可のホンイツになりました」と答えて、幹部を爆笑させた猛者(もさ)がいる。残念ながら、彼は外交官試験に合格せず、三菱商事に就職して、その後、自分でベンチャービジネスを立ち上げている。

  外交官試験のもう一つのメリットは、明治維新から現代にいたる日本外交史が試験科目の中に入っていることである。日本史の中でも、明治維新から現代までの現代史が一番面白くてためになるのだが、中学や高校の日本史の時間では、大体、尻切れトンボになって、満足に勉強していない。

  しかし、外交官試験では日本外交史が必須科目になっているので、無理やり、明治維新以後の現代史を勉強させられる。これが非常に役立つ。というより、歴史が分かっていなかったら、他国の政治家や外交官と議論してもピンぼけの話になってしまう。こうした歴史の知識は外交官だけでなくて、政府の中枢で働くすべての人に必要であり、国家公務員上級試験の必須科目にしても良いのではないか。

在外研修

  外務省に入ると、最初の1年間、本省で雑巾がけをした後、2年から3年、語学の勉強のために在外研修に派遣される。2年から3年というのは、英語、フランス語、スペイン語は比較的に習得しやすいので2年、中国語、ロシア語、アラビア語は難しいので3年ということになっているのである。

  私は、高校時代にアメリカに留学したこともあって、引き続き英語を勉強するように命ぜられて、イギリスに研修に行くことになった。研修先は雅子様も勉強されたオックスフォード大学である。

  オックスフォード大学は、ヨーロッパの中世時代に貴族の子弟を教育するためにできた大学である。当初の教育の内容は、主にホメロスやプラトンなどのギリシャ古典を教えるものだったが、その狙いは一神教のキリスト教がすべてを支配していた当時の社会状況の中で、多神教のギリシャ時代の神話や哲学を教えることで、ある特定の時代や社会の既成概念に縛られずに自由に考えることのできる人間を育てようというものだった。

  その伝統は、教育カリキュラムを現代社会に合わせて、いまでも受け継がれており、そのため、将来のリーダーたらんと、世界中からエリートがやってくる。アメリカのクリントン前大統領もかつてローズ奨学生としてオックスフォード大学で学んだのはよく知られている。ローズ奨学生というのは、南アフリカで金鉱を掘り当てて大金持ちになったオックスフォード大学出身のセシル・ローズが設立した奨学制度で、アメリカでローズ奨学生に選ばれるのは大変名誉なことである。

  ちなみにアメリカの超エリートコースというのは、ハーバード大学やエール大学などの名門大学を卒業後、ローズ奨学生となってオックスフォード大学に留学し、その後、さらにハーバード大学やエール大学のロースクールを卒業することである。

  世界中の秀才が集まってくるわけだから仕方がないのだが、オックスフォード大学では、自分が劣等生である屈辱感をとことん味わった。それまで僅かながらもあった自分の頭脳に対する自信はこのとき木っ端微塵に砕かれた。

  オックスフォード大学での教育は、テューターと呼ばれる指導教官との1対1のやり取りで進められる。授業もあることはあるが、授業への出席は義務づけられていない。毎週、テューターから出されるテーマについて命がけでエッセイ(論文)を書き、そのエッセイについてテューターと議論することが教育なのである。エッセイの結論は白でも黒でもよく、その結論を導き出すまでの議論の仕方を徹底的に鍛えられる。

  忘れられないテューターにヴァリママッドという人物がいる。アフリカのモザンビークで生まれた2歳年上のインド人だが、この人の数奇な人生と頭の良さには舌を巻いた。

  ポルトガルの植民地であるモザンビークで生まれたため、インド人である彼は高等教育を受けられず、勉強を続ける方策として修道院に入った。しかし、神の存在をどうしても信じることができなかったため、途中で修道院を抜け出した。

  彼の非凡な才能を信じた親戚は、お金をかき集めて、ロンドン行きの片道切符の費用を捻出した。ロンドンに着いて、下宿先に落ち着いた彼は、毎日、毎日、ディッケンズの「大冒険」を暗記するまで繰り返し読んだのだという。 短期間にイギリス人も驚くような英語を話すようなるのを目の当たりにして、下宿先のおばさんがドイツ語を勉強してみないかとドイツへの短期留学の費用を出してくれた。

  短期間のドイツ留学でこれまたドイツ語も流暢になると、今度はフランス語だとパリに移る。そこで、もともとハンサムな彼はファッション・モデルになって、お金を稼ぎ出す。

  彼が凄いのは、そこでファッション・モデルに終わらず、自らファッション・デザイナーになってしまうところである。イギリスの名門イエガーの専属デザイナーになって生活を安定させた彼は、次に、イギリスの地方大学に入学する。

  彼の非凡な才能は指導教授にすぐ見出されて、卒業するとオックスフォード大学で博士号を取るように勧められた。オックスフォードでは、自ら勉強する傍ら、学生も教えるようになったというのが彼の経歴であった。

  いやはや、広い世界には大変な人物がいるものだと恐れ入った。彼の将来の夢は、アメリカに渡って、アメリカ大統領の補佐官になり、アメリカのアフリカ政策を変更することだと言っていたが、まだ、彼の名前が出てこないのを見ると、途中で進路を変えたのかもしれない。ヴァリママッドは、いま、どうしているだろうか。

老外交官の思い出

  イギリスでの研修を終えるに当たって、当時の在英日本大使である藤山楢一大使が我々研修生を昼食に大使公邸に招いてくれた。

  大使公邸といっても、「これが日本の大使の住むところか」とがっかりするような公邸も数多くあるのだが、イギリスにある日本大使公邸は文句なしに素晴らしい。ロンドンのケンシントン・パークの緑に囲まれた、鹿鳴館はこのような建物であったに違いないと思わせる英国式旧舘である。

  藤山大使は、これまた、「なるほど、これが外交官か」と思わせる、俳優のような容貌と気品の持ち主である。

  昼食をご馳走になった後、別室のソファーに移って、藤山大使を囲んでコーヒーを飲んだ。「聞きたいことがあったら何でも聞いてくれ」と言われて、「大使の長い外交官生活の中で、一番思い出に残っていることは何ですか?」と聞いた。

  藤山大使は、我が意を得たりとばかりに大きくうなずいて、「2つある」と答えられた。

「一つは、真珠湾攻撃の時に、ワシントンの日本大使館にいたことだ。暗号の解読とタイプが遅れて、宣戦布告が遅れてしまった。外交官生活で最大の痛恨事であり、ずっと負い目を感じてきた。」

  これには一同驚いた。歴史の生き証人が目の前にいる。なぜ、遅れたのか、もっと詳しく聞きたい衝動に駆られたが、さすがに失礼だと思い口をつぐんだ。

「もう一つは、天皇が訪米されたときのスポークスマンを務めたことである。この任務を無事終えたとき、ようやく真珠湾攻撃の借りを返せたと思った。もう自分の仕事は終わったと思った。」

 「なかでも忘れられないのが、訪米に際して記者会見を開いたときのことだ。記者団に事前に質問を出してもらって、事務方で回答を用意していたが、その中に、『第二次大戦に関して天皇は自ら政治判断を下していたのか』という質問があった。日本の新聞記者だったらこんな質問はしないが、アメリカの記者だから単刀直入に聞いてきた。天皇の戦争責任問題にも発展する恐れがあり、とても事務方では書けない。これはもう、陛下にお伺いするしかないということになって、陛下に直接お伺いすることになった。」

  「ところが、畏れ多いと言って、誰も陛下にお伺いするものがおらず、結局、自分がお伺いすることになったのだが、陛下はこともなげにお答えになられた。その陛下のお答えが実に明快だった。曰く、『自分は二度だけ決断した。最初は二二六事件のときであり、どうしましょうかと聞かれたので、鎮圧しろと言った。二回目は終戦に際してであり、どうしましょうかと聞かれたので、止めろと言った』というものであった。」

 我々は深い感慨に襲われた。引退を間近に控えた老外交官が、いまから旅立とうとする外交官の卵たちに自分の体験談を淡々と語ったものだったが、外交官の仕事とはこうした歴史の瞬間に立ち会うことなのだという高揚感にも似た感情が湧きあがってきたのを覚えている。

 
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