ぶんどう物語 - I N D E X -
 ■1 蛍を追いかけて -私の原風景-
■2 アメリカ留学
■3 外務省へ(その1)
■4 外務省へ(その2)
■5 危機管理その1 −大韓航空機撃墜事件−
■6 危機管理その2 −メキシコ地震−         (続く)
  6 危機管理その2 ーメキシコ地震ー
   昭和60年(1985年)7月、突然、領事移住部の領事二課(現「邦人保護課」)首席事務官に任命された。首席事務官というのは、他の省庁では総括課長補佐と呼ばれているポストで、要するに課のナンバー2である。外務省だけ、なぜか、首席事務官と呼ばれている。

  表面的には抜擢人事だったが、実情は苦しい人繰りの中での苦肉の策だったようだ。というのは、成功を義務づけられている東京サミットを翌年に控えて、若手の実力派キャリアを動かせないという事情があった。しかし、すべての人事をストップするわけにもいかず、その玉突き効果で私のところまでお鉢が回ってきたのである。

  もちろん、この前提には、課長や首席事務官になるのは原則としてキャリア組だけという悪名高きキャリア制度があるのだが、キャリア制度の功罪については長くなるので後であらためて触れることにしたい。

  領事移住部の仕事は、簡単に言うと、海外にいる日本人のお世話である。海外にある大使館や総領事館は、外国の要人とあったり、国会議員のお世話ばかりしているわけではない。そこに住んでいる日本人のお世話もしている。

  例えば、外国で結婚したり、子供が生まれたりした場合にどうするかというと、大使館や総領事館に結婚届や出生届を出すことになっており、こうして出された書類が、まず、外務省に送られてきて、さらに法務省を経由して、日本国内の本籍地の役場に届けられる仕組みになっている。

 また、海外で日本人が盗難や交通事故などの事件・事故に巻き込まれた場合の保護も大使館や総領事館の仕事である。保護すると言っても、旅券を発行したり、外務省に取り次いで留守宅に連絡したりするくらいしかできないのだが、領事二課は全世界の大使館と総領事館を管轄しているので、毎日、世界中から様々な事件が飛び込んでくる。

 一歩、対応を誤ると、今度は政治的な事件に発展して、マスコミや国会の非難の的になる恐れがある。そんなこともあって、着任に際して、当時の課長から、「邦人保護は(マスコミや国会で問題になったときの)アリバイ工作と考えてくれ」と言われて、「何ということを言う人だ」と大変な抵抗を感じたのを覚えている。

 外務省では「首席事務官とコジキは3日やったらやめられない」と言われているのだが、いきなり、管理職になったために、随分、苦しんだ。総勢20人の陣容の中で、キャリアは課長と首席事務官の2人だけ。あとはすべてノンキャリアという構成だった。しかも、ほとんどの課員が領事経験の豊富な年長者でやりにくいことこのうえなかった。

 最初は、好かれようとあれこれ努力したが、まったく効果なし。自分より年下の庶務の植松さんにもそっぽを向かれた。浮かない顔をして廊下を歩いていたら、前の課でお世話になった庶務の佐藤さんにばったりぶつかった。「暗い顔してどうしたの」と聞かれて、思わず愚痴をこぼしたら、「いつも課の人のことを考えていれば大丈夫。うまくいけば、放っておいても高木さんの手柄になるんだから、課の人が失敗したときにかばってあげて。それで大丈夫」と励まされた。

 「そんなことしても分かってもらえるのかな」と半信半疑だったものの、好かれることはもうあきらめていたので、それからは努めてそう考えるようにした。すると不思議なもので、課の雰囲気が何となく変わってきた。そんなときに、メキシコで大地震が起きた。

 昭和60年(1985年)9月19日、マグニチュード8.1の大地震がメキシコを襲った。首都メキシコシティは壊滅的打撃を受け、電話も不通になった。当時、メキシコシティには約3000人の日本人が住んでおり、一体、どれだけの被害者が出たのか予想もつかなかった。報道機関と留守宅から安否確認の問合せが外務省に殺到し、領事二課の電話という電話がなりっ放しになった。幸い、外務省とメキシコの日本大使館を結ぶ専用回線は奇跡的につながっていた。

 「安否確認の電話が殺到しています。電話が不通のメキシコシティで、3000人の安否確認をするのは不可能だと思いますが、首席、どうしますか」と判断を仰いできた。皆、受話器を耳に当てながら、息をのんで、私の判断を待っている。「どうもこうもない。やるしかない」と咄嗟に判断して、「全部、やってくれ」と言うと、「そんな。無理ですよ」。「できないかどうかはやってみなければ分からない。とにかく、要請があったものは全部取り次いでくれ」と追い打ちをかけると、「首席がそう言うなら、仕様がありません」と不承不承ながらも、皆、一斉に名前と住所を控え出した。無理難題を押しつけて申し訳ないという気持ちと、大使館員が果たして動いてくれるだろうかという不安な気持ちが錯綜する中で、私は苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙っていた。

 ところが、予想以上にこれがうまくいった。安否確認の名前と住所だけで何ページにもなる電報を受け取った大使館員は、反発するどころか、意気に感じて、瓦礫の山の街に飛び出していった。また、日本人が住んでいる住宅地域が固い岩盤だったことも幸いした。メキシコから無事を知らせる電報が届くたびに、課員が一人ひとりの留守宅に電話した。そして、吉報を待ち望んでいた留守宅から感謝されるたびに、課の雰囲気が明るくなっていった。メキシコ地震では約1万人の死者が出たのだが、奇跡的に全員の日本人の無事が確認された。

 メキシコ地震での我々の対応は高く評価された。外務省の評判が地に落ちた今では想像できないことだが、当時、「外務省、ありがとう」という投書が、朝日新聞と毎日新聞の投書欄に掲載されたのである。これは、それまでマスコミに叩かれることはあっても誉められることがなく、省内では日陰者のような存在だった領事移住部にとっては画期的なことであった。メキシコ地震をきっかけに、「邦人保護はアリバイ工作」という課員の意識が、「困っている人を実際に助けることができる我々の仕事は素晴らしい」という誇りに変わったように思えた。

 メキシコ地震の対応でようやく私は課員から首席事務官として認められた。その年の忘年会のことだ。それまで、口もきいてくれなかった植松さんが、にっこりほほ笑んで、「はい、首席」とビールをついでくれた。このとき飲んだビールの味は忘れられない。

 
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