- I N D E X -
 ■1 蛍を追いかけて -私の原風景-
■2 アメリカ留学
■3 外務省へ(その1)
■4 外務省へ(その2)
■5 危機管理その1 −大韓航空機撃墜事件−
■6 危機管理その2 −メキシコ地震−         (続く)
  1 蛍を追いかけて -私の原風景-
 

ふるさと

  私が生まれ育ったのは、福井県の片田舎、南条町である。小学校4年生のときに三つの村が合併して南条町になるまでは、南日野村という人口一千人余りの小さな村であった。
「ふるさと」という歌があるが、あの歌に描かれている通りの村である。私が子供の頃は、まだ、釜でご飯を炊いていたので、裏山に薪(たきぎ)を取りに行くなんてことを本当にしていたのだ。
 
  朝起きると、母が朝4時に起きて山から取ってきたわらびを台所一面に広げている。山の中に帽子を忘れてきたから取ってきてくれと母に頼まれ、朝食前に2キロもある山道を走っていったこともある。

 いまでも忘れられないのが蛍取りの光景である。農薬をあまり使っていなかった当時は、川の流れにそって蛍の川ができた。夜の空には銀河系が横たわり、地上には蛍の川がどこまでも続いている。村の子供たちは寝巻き姿で竹箒を持って蛍を追いかける。竹箒で空中を掃くようにすると、飛んでいる蛍が竹に引っかかって面白いように取れるのだ。もっとも、蛍取りは一度か二度してやめてしまった。取ってきた蛍を蚊帳の中に放してはしゃいでみたものの翌朝は死んでいた。はかない命の蛍をつかまえてみても意味がないと子供心に思ったのだろうか。それ以降は飛んでいる蛍を追いかけるだけになってしまった。

 小学校3年生まで通った国華小学校も忘れられない。木造2階建てのオンボロ校舎。校舎の中も外も裸足が原則だった。校庭を裸足で走り回って痛くなかったのが不思議である。また、あの当時は冬になると大雪の連続だった。吹雪の中を上級生の体に隠れるようにして歩く。学校に着くと、玄関で上級生が竹箒を持って待ち構えており、雪をばたばたはたく。小学校3年の時は、いわゆる38(サンパチ)豪雪で学校が一週間以上休校になって大いに喜んだものだ。

 ところで、最近、国華小学校の頃のとんでもない出来事を思い出した。小学校1年生か2年生のときだ。ゴミ拾いの時間だった。私は校門近くの溝のゴミ拾いをしていた。そして、隣でゴミ拾いをしていた林博之君に、「大きくなったらアメリカ人と結婚したい」と打ち明けたのだった。なぜ、そんなことを思ったのかは分からない。びっくりしたのは、それを聞いた林博之君が突然、大声で走り回って、「文堂はアメリカ人と結婚したいんやとー」と言いふらしたことだ。私は、「そんなこと言ってない」と言いながら必死で彼を追いかけたのを覚えている。よっぽど恥ずかしかったのだろう。それ以来、本心を語るのが臆病になってしまった。

  最近、ふと、この出来事を思い出した。そして、その後の人生をよく考えてみた。すると、結局、アメリカ人とは結婚しなかったものの、このばかげた願望が、無意識のうちに自分の原動力になっていたのかも知れないと思えてきた。そう考えたら、あまりに可笑しくて、30分ほど笑いが止まらなかった。

お寺の生まれ

  私の家は浄土真宗のお寺である。延暦三年(1310)、鯖江の真宗本山誠照寺法主の弟が高木家に清照寺という寺号をもって養子に入ったと伝えられている。通常、お寺というと檀家に支えられて、ある程度余裕のある生活を送れるものだが、我が家の場合は大変な落ちぶれようだった。

 「唐様で空家と書く三代目」という川柳にあるように、明治に入ってから、曾曾祖父、曾祖父、祖父と三代かけて身上をつぶしたようだ。曾曾祖父の高木治左衛門は、南日野村の初代村長であり、福井県置県最初の県会議員の一人であったというから、私の政治家志望も血によるものかも知れない。
曾祖父の治左衛門は、金沢四高に学んだ秀才だったが、「きちがいだんな」と呼ばれた変人で、手品や催眠術にこって人を驚かしたらしい。そう言えば、父も下手な手品にこったこともあるし、私も催眠術にこったことがあるから、いよいよ、血は争えない。
祖父の真教は盲目でありながら書や画を書いた器用な人であったが、とても熱心な住職とは言えなかった。三代にわたって、まったく寺のことをかえりみない住職が続いたものだから、檀家はどんどん去っていって、父が住職になったときは四軒しか残っていなかった。当然の報いであろう。
ちなみに、私の名前も父の名前もお寺の再興を願う祖父がつけたものである。父の名前は、「お堂に陽を当てる」という意味で陽堂である。私は、「学問(文)でお堂を再興する」という意味で、文堂と名づけられた。自分の放蕩を棚に上げて、子供と孫にこんな名前をつけた祖父はいい気なものだと思うが、文堂という素晴らしい名前をつけてくれた祖父には感謝している。

  父は陽堂という名前に忠実に生きようとしたが、重圧に耐えかねて、ささやかな抵抗を試みたことがある。仏教専門大学である龍谷大学に入学しながら、英文学を専攻したのである。といっても、戦時中だったせいか、満足な英語教育を受けておらず、父は息子の私が呆れるほど英語が下手だった。しかし、このとき、父が曲がりなりにも英語を勉強したお陰で、後に高校の英語教師となり、さらには、私が外務省に入ることにもつながっていくのだから、巡りあわせとは不思議なものである。

 
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