ぶんどう物語 - I N D E X -
 ■1 蛍を追いかけて -私の原風景-
■2 アメリカ留学
■3 外務省へ(その1)
■4 外務省へ(その2)
■5 危機管理その1 −大韓航空機撃墜事件−
■6 危機管理その2 −メキシコ地震−         (続く)
  2 アメリカ留学
 

英語と私

  私が英語を勉強しだしたのは中学1年のときである。私の英語は、中学1年で始めてもここまでは行けるといういい見本である。

  といっても、私の英語は立て板に水を流すような流暢なものではない。また、決して語学の才能がある方でもない。外務省でも、通訳としては失格だった。しかし、英語圏を専門とするキャリア外交官になり、さらには、ニューヨークで弁護士としてアメリカ人相手に仕事をしていたわけだから、英語はある程度ものになったと言えるだろう。

  とにかく、私は中学に入学して英語の勉強を始めたのだが、私にとって幸いだったのは、父が英語を一言も話せない英語教師だったことである。先に説明したように、父は仏教専門大学の龍谷大学に行ったにもかかわらず、英文学を専攻した。ところが、戦時中に英語教育を受けたせいか、英語は一言も話せなかった。

  英語が話せないどころか、ほとんど英語が分からないのに教壇に立たなければならなかった父の苦しみは想像を絶するものだったに違いない。逃げ場のない父は勉強した。どうしたら、自分ができない英語を、生徒たちに分かるように教えるか研究した。そして、私がその研究の実験台になったのである。

  父の英語指導法は簡単だった。テープに合わせて教科書を朗読する。これだけである。英語教師をしていたので、当時は高価だった英語テープをダビングすることができた。また、人に先駆けてテープレコーダーを買ったところも父の先見性である。

  この英語勉強法は驚くほど効果がある。中学校3年生までの教科書の英語で英会話は十分可能なのである。当時から英語の勉強法を聞かれるたびにこの方法を伝えているが、その通り、実行する人はほとんどいない。問題は方法論ではない。やるかやらないかである。

アメリカ留学

  アメリカ留学を意識するようになったのは中学3年の頃だろうか。福井新聞で福井市内の高校生がアメリカ留学することになったという記事を読んでからである。

  高校1年のとき、AFSという高校留学を実施している団体の選考試験を冷やかし半分で受けた。いまでこそ、高校留学を実施する団体は山ほどあるが、当時はAFSくらいしかなかった。しかし、2次試験の面接であっけなく落ちてしまった。駄目でモトモトと思っていたから、大してショックも受けなかった。

  高校2年の修学旅行のとき、同級生が酒を飲んで退学になった。停学処分を受けた同級生もいた。その事件以来、クラスがばらばらになってしまった。みんな、自分だけの世界に閉じこもり、関わり合うことをやめてしまった。今度は、本気でアメリカに行こうと思った。暗い高校生活が嫌で、違う世界に逃げ出したかったのかも知れない。アメリカに行けば、きっと素晴らしい世界が広がっているに違いないと信じていた。

  前の年に面接で失敗しているので、じっくり対策を練った。2次試験は県内の教育委員会が行うので、優等生の模範答弁で合格。いよいよ、東京で行われる3次試験。なぜ、アメリカに行きたいかという英作文を書いて、丸暗記していった。東京の虎ノ門の教育センターでアメリカ人の試験官による面接が行われた。最初に何を聞かれたのか覚えていない。「その質問に答える前に、なぜ、僕がアメリカに行きたいか聞いて欲しい」とまくし立てて時間切れ。この戦略が効を奏してか、合格。こうして、私は高校3年の夏から1年間、アメリカで過ごすことになった。

初めて見るアメリカ

  初めてアメリカを見たのは1972年の7月19日である。羽田空港をジャンボ機で飛び立ち、まず、サンフランシスコ近郊のスタンフォード大学で一泊した。  日本の夏と打って変わって、からっとしたさわやかな気候。緑が一杯のキャンパスの中に郵便局があるという広大さ。いきなり、アメリカの豊かさに度肝を抜かれてしまった。青いトヨタの車を発見して、嬉しくて仲間と取り囲んだのを覚えている。「こんなところで良く頑張っているな。僕たちも頑張るから、君も頑張ってくれよ」という気持ちだった。

  翌日、飛行機でカンザスシティまで飛んで、そこからバスでシカゴまで行く。17時間のバス旅だった。何時間もとうもろこし畑がえんえんと続く。日が暮れる前も、夜が明けてからも見渡す限り一面のとうもろこし畑。もう一度、日が傾きだした頃、忽然と摩天楼が姿を現す。そこがシカゴだった。

  シカゴのバス・ターミナルでホストファミリーと落ち合い、一年間過ごすことになるウィスコンシン州の小さな田舎町ウィネコネへ向う。札幌よりも緯度が高いため、夜7時を回っているのに真昼のような明るさだったのを覚えている。新しい家族と拍子抜けするほど簡単な夕食を終えた後、自分の部屋のベッドに倒れこんだ。

  翌朝、スプリンクラーの音で目が覚めた。時計を見ると、お昼近くになっている。次に窓から見た光景が忘れられない。爽やかな真夏の日ざしの中で緑鮮やかな芝生にスプリンクラーが惜しげもなく水をまいている。「ああ、アメリカに来たんだなあ」と実感した。

ホームスティ

  私が1年間お世話になったのは、36歳のお父さんに35歳のお母さん。16歳の長男を筆頭に15歳、13歳の男の子ばっかりという若くて騒々しい家族だった。お父さんのジャン・ピーターソンは36歳の若さなのに町の教育長をしていた。29歳で高校の校長になったというから、アメリカ社会の仕組みがどうなっているのかさっぱり分からなかった。

  ジャンは高校時代、バスケットのスター選手。お母さんのマーガレットは、一歳年下のチアリーダー。ジャンが高校卒業と同時に二人は結婚。1950年代のアメリカを象徴するようなカップルだったのだろう。

  次々に生まれた子供は皆、男の子。長男のケントを除いて、次男のジェフも末っ子のスティーブも父親譲りのスポーツマンだった。長男のケントは、対照的に芸術化肌で、ロックバンドでキーボードを弾くと思えば、クラシックピアノの作曲もする。演劇もやれば、詩も書くという70年代のアメリカのヒッピー文化を体現するような若者だった。

  通ったのは、人口1,400人の小さな町に一つしかない公立高校である。通ったといっても、学校は自宅から目と鼻の先のところにあり、歩いて3分もかからない。

  日本では青白い秀才だったが、新しい家庭環境に大いに刺激を受けて、秋学期はアメフット、冬学期はレスリング、春学期は陸上競技と、一年間続けてアメリカの科学的なトレーニングを受けたお陰ですっかりたくましくなった。

  ホームステイ高校留学の目的は異文化体験である。異文化体験をすることで自分が育った文化の産物であることに気づくと同時に新しい刺激を受けて変容していく。

  アメリカの中西部にあるどこにでもある小さな田舎町。日本人はおろか、外国人は私一人しかいない。そして、そこでごく普通の暮らしをしているアメリカ人の家庭で過ごした1年間で私がどう変わったのか、自分でもよく分からない。

  アメリカに渡った始めの頃は、まるで、ロボットの中から外を覗いているような感覚だったのが、ある時点から様々な形で状況に巻き込まれ出し、その中で必死に生きていくのに忙しくなった。そのとき、自分の中でどのような化学変化が起きたのかは自分では分からない。ただ、そのとき以来思っているのは、傍観者でいては、何も分からないし何も変わらないということだ。

大統領選挙

  私がアメリカに行ったのは1972年。4年ごとに行われる大統領選挙の年である。現職のニクソン大統領と民主党のマクガバン上院議員との争いだった。アメリカの大統領選挙はアメリカ国民全体を巻き込んだお祭り騒ぎである。この頃、すでに大統領選挙はエンターテインメントになっていた。

  アメリカでは18歳で選挙権を持つ。したがって、高校3年生は有権者である。高校の授業でも大統領選挙の議論をガンガンやる。ある歴史の授業では、クラスがニクソン派とマクガバン派に分かれ、ディベ―ト(討論)をやった。私はアメリカ人ではないという理由で審判をやらされた。

  日本の高校の生徒会では、長髪を認めるべきかどうかという愚にもつかない議論を延々とやっていた。何という違いだろう。ここでは、同い年の高校生達がこれからアメリカをどうすべきか目を輝かせてながら議論している。しかも、彼らはお遊びでやっているのではない。投票日には、ちゃんと投票できる有権者なのである。

  アメリカは大統領が変わると本当に変わる。もちろん、閣僚はそう入れ替えだし、お役所でも局長以上は入れ替わってしまう。ワシントンで3万人の顔ぶれが変わると言われている。

  顔ぶれが変わるだけではない。政策も劇的に変わる。1980年にレーガン大統領が当選したときは、公約通り大幅減税を断行して、アメリカ中の金持ちを狂喜させた。だから、アメリカ国民は大統領候補の話を真剣に聞く。家庭でも食卓で真剣に議論する。学校でも議論する。大統領選挙の期間中は、国中が大統領選挙の話で明け暮れる。

  私が政治に関心を持つようになったのはどうもこのときらしい。大統領選挙のダイナミズムと面白さに引き込まれたのである。だから、私には「政治は面白い」という原体験、強烈な思いがある。自分たち自身で自分たちの将来をどうするか語り合い、自分たちの手で決めていくのだから面白いに決まっている。日本の政治が面白くないのは、どこかが間違っているからではないかと思い続けてきた。

ホームカミングとプロム

  アメリカの高校生にとってホームカミングとプロムは一大イベントである。ホームカミングは秋学期のイベントであり、プロムは春学期のイベントである。驚いたのは学校主催でダンスパーティが開かれ、そこに参加するカップルが公表されることである。プロムにいたっては、ダンスパーティが開かれた翌朝、学校主催の朝食会が開かれる。言い換えれば、高校生同士のセックスが親と学校によって公認されているわけであり、これには心底驚いた。

  周りに煽られて私はどちらにも参加したのだが、ホームカミングの時にはハプニングがあった。

  まず、最初に誘ったクラスメートのジュディに振られてしまった。英作文のクラスで読み上げた「数学は人生に必要か」という私のエッセイをお義理で褒めてくれたジュディが好きになって誘ったのだが、ものの見事に振られてしまった。こういうとき、留学生で辛いのは、振られた話が一瞬のうちに学校中に広がることである。「傷口を侮辱する」(add insult to injury)という英語の言い回しがあるが、まさしくこのことである。

  次に何が起きたかというと、別のクラスメートのパメラが自宅までやってきて、「ホームカミングに一緒に行って欲しい」と言ってきたのである。同情されているようで、あまり気乗りしなかったのだが、男性が女性を断ってはならないと思って、OKした。

  ホストブラザーのケントが気を回したのだろうと思っていたが、後で確かめたら、そんなことはしていないという。パメラが何を考えて誘ってきたのか、いまだに謎である。

  5月に開かれたプロムには、その頃、ステディ・ガールフレンドとして交際していたタミィ・ヒースと行った。

  女性はイブニングドレスをあつらえ、イブニングドレスの色に合わせて、花束を選ぶ。
花束を抱えて、女性を迎えに行き、夕食会の会場に向う。夕食をすませるとダンスパーティに出かける。ダンスパーティの会場は学校のカフェテリアである。夕食会もダンスパーティも学校主催だから驚かされる。

  ままごと遊びのようだが、男性は紳士らしく、女性は淑女らしく振舞う。なぜ、こんな行事が学校教育の中に組み込まれているのか誰にも聞かなかったが、考えてみれば男女間の交際は人生の一大事である。秘め事として抑圧するよりは、オープンにして正しい方向に導くという考え方がベースにあるのかもしれない。

 
Page Top

高木ぶんどう後援会 © 2000-  TEL:0776-57-0771 FAX:0776-57-0772 MAIL:web@bundo.com