ぶんどう物語 - I N D E X -
 ■1 蛍を追いかけて -私の原風景-
■2 アメリカ留学
■3 外務省へ(その1)
■4 外務省へ(その2)
■5 危機管理その1 −大韓航空機撃墜事件−
■6 危機管理その2 −メキシコ地震−         (続く)
  4 外務省へ(その2)
 

初めての大使館勤務

  2年間の在外研修が終わると、次は大使館勤務である。最初の任地は、中近東のアラブ首長国連邦であった。真夏には気温が50度を超えるこの国の土地を初めて踏んだときのことは忘れられない。

  アブダビ空港に着いたのは7月のある真夜中であった。飛行機の外に出ると熱風が吹き付けている。飛行機のエンジンの風が当たっているのだなと思っていたら、いつまでたっても風が吹き止まない。その熱風こそが、初めて経験する熱帯の暑さだった。

  前任者に出迎えられて、大使館の車に乗ると、雨も降っていないのにワイパーが動いている。湿度が100%近くあるために冷房で冷えた車の窓ガラスには霜がつくのだという。どんなに暑くても湿度が低ければ何とか耐えられるものだが、50度近い暑さと100%近い湿度の組み合わせというのは過酷な生活環境である。外務省では、生活環境の厳しさに応じて、瘴癘度(しょうれいど)と呼ばれるものが1から5まで決められている。最も過酷な生活環境が瘴癘度5とされており、赴任した当時のアラブ首長国連邦の瘴癘度は5であった。

  少しでも暑さを避けるために、大使館の勤務時間は、早朝の7時から午後1時までだった。その後、何をして過ごすのかと思ったら、体力の消耗を避けるために昼寝をするように言われた。午後1時に勤務を終えると、家に戻って昼食を取り、すぐ昼寝をする。午後4時頃から起き出して、スークと呼ばれる市場に買い物に出かける。それから、夕食を食べて、また、眠る。まさに、そこで生きていることが最大の仕事であるかのような生活だった。

  役職は大使秘書と政務ということだったが、時々、石油事情の視察という名目で日本からやってくる国会議員の通訳をするくらいで、ほとんど仕事らしい仕事はしなかった。アラビア語がまったくできない私がなぜ通訳ができたかというと、もともと英国の保護領であったために、ほとんどの要人が英語を話せるからである。

  ところで、国会議員の外遊のお供というと、外交官の下らない仕事の代表格のように言われているが、それほど意味のないものではない。お相手をする駆け出しの外交官にとってみれば、功なり名を遂げた人のお話をサシでじっくり聞けるのは大変な役得である。アラブ首長国連邦では、パレスチナ問題に取り組んでいた山口淑子参院議員のお相手を何度かさせていただいたが、李香蘭として知られる山口さんの数奇な人生について直接お話を伺えたのは貴重な経験だった。「何事も一生懸命やっていれば、必ず道は開けます」という山口さんの励ましの言葉は忘れられない。

「アラビアのロレンス」の足跡をたどる

  瘴癘度の高い国で勤務すると、様々な瘴癘地手当てがついてくる。その中の一つが、健康管理休暇と呼ばれる有給休暇である。例えば、ナイジェリアなどではマラリア対策でキニーネと呼ばれる劇薬を常用する必要があるが、健康を維持するためには、キニーネを飲まない期間を作る必要がある。このキニーネを飲まない期間が健康管理休暇であり、大抵は、避暑のためヨーロッパに出かける。

  アラブ首長国連邦の日本大使館で働いていた上司や同僚もすべてヨーロッパに出かけていた。ところが、私はこの健康管理休暇を利用して、「アラビアのロレンス」の足跡をたどる旅に出かけたのである。高校時代にピーター・オトゥール主演の「アラビアのロレンス」を3度見て、すっかりはまってしまい、いつか、きっとロレンスの足跡をたどってみたいと思っていたのである。

  まず、ヨルダンの首都アンマンに飛んだ。同じ中東でもこれほど違うのかとびっくりするほど涼しい気候だった。アブダビでは、どんなに時間があっても一冊も本を読めなかったが、その夜はホテルで久しぶりに読書を楽しんだのを覚えている。

  翌日、バスに乗って、キングズハイウェイを南に下り、アカバに向かった。アカバには飛行機で簡単に行けるのだが、それでは、ロレンスの足跡をたどることにはならないと思ったからだ。

  アカバはシナイ半島の付け根にある港町で、ロレンスが活躍した第一次大戦のときは、オスマン・トルコ軍が誇る難攻不落の要塞だった。アカバの背後は灼熱のネフド砂漠で守られていたため、砲台はすべて海に向かって固定されていた。ロレンスはアラブの遊牧民を率いて、不可能と思われていたネフド砂漠を横断して、アカバを攻略したのである。

  朝、アンマンを出てから、ひたすら砂漠の中を走り続け、ようやく夕方になって海に臨むアカバを遠望できる丘にたどり着いた。アカバの灯をバスの窓から眺めながら、突撃を翌日に控えて同じ丘からアカバの灯を眺めたロレンスの気持ちを思った。

  アカバに着いた翌日、タクシーを借り上げて、アカバから車で3時間ほどのところにあるペトラを訪れた。ペトラは岩の山をくりぬいて建設された古代都市国家で、紀元前1世紀にローマ軍によって滅ぼされた。20世紀に入って、イギリス人の探検家に発見されるまで、約2000年近く、誰に知られることもなく、砂漠の中に埋もれていた。

  ラクダの背に揺られながら切り立った岩の谷間を縫うように進んでいくと、突然、視界が開けて、巨大な岩の神殿が目に飛び込んでくる。このシーンがあまりにも印象的なために、インディ・ジョーンズなど古代の遺跡シーンが出てくる映画のロケにもよく使われている。

  パレスチナ人のガイドの案内でペトラを見学したのだが、ガイドの様子がおかしい。不安そうに顔を見合わせて、ラジオに聞き入っている。何が起きたのか聞いても、「イスラエル」という言葉と、「戦争」という言葉が断片的に聞き取れるだけである。ガイドたちの様子で、何か容易ならざる事態が発生したことは分かったが、詳しいことは分からなかった。

ダマスカスで死の恐怖を味わう

  何が起きたのか分からないまま、アカバから飛行機でシリアの首都ダマスカスに向かった。ダマスカス空港に着いて、バゲージテーブルで自分の荷物が出てくるのを待っていると、次々とアイスボックスが出てくる。何だろうと、よく目を凝らして見ると、マジックでBlood(血)と書かれている。いよいよ、何が起きたのだろうと不安になる。

  予約していたメリディアン・ホテルに向かうバスの中にロイター通信のクルーがいて、ようやく事情が飲み込めた。イスラエルがレバノン南部に潜むパレスチナ・ゲリラを叩くためにレバノンに侵攻したのだという。アイスボックスに詰められた血はアラブ諸国から献血で集められた血だった。

  メリディアン・ホテルに着くと、世界各国から報道陣がぞくぞくと詰めかけていた。皆、しきりに情報交換している。ダマスカス空港がたった今、閉鎖されたという。ダマスカスに閉じ込められてしまった。いつ、出国できるか分からない。これはとんでもないことになったと青ざめた。

  ホテルにチェックインすると、すぐ、日本大使館に向かった。「休暇など取っている場合ではない。何ができるか分からないが、やれることをやるしかない」と意気込んで飛び込んだが、アラビストの多田大使は、「戦争に遭遇できるのは外交官として幸運だ。じたばたしても始まらないから、ダマスカスをよく見ていきなさい」と悠然としたものだった。さすがに練達の外交官は違うものだと感心した。

 ダマスカスは4000年の歴史を持つ世界で最古の都市とされている。ダマスカスで面白いのは、聖書の中の記述が今でもそのままそっくり残っていることである。

  新約聖書のパウロ伝によれば、ダマスカスでキリスト教徒を迫害していたパウロはダマスカス郊外で雷に打たれて失明する。このとき、天から、「まっすぐな道に行け」という声が聞こえてきたので、「まっすぐな道」に行ってヨハニアに出会ったとされている。
驚くのは、この「まっすぐな道」がそっくりそのまま残っているのである。といっても、名所旧跡として残されているのではなく、今でも当時と同じ生活道路として残されている。

  なぜ、そうだと分かるかというと、くずれかけそうな白いしっくいの家が立ち並ぶ中でそこだけなぜかまっすぐになっているからである。パウロはここでヨハニアと出会い、ヨハニアの家に連れられていき、目が見えるようになる。このヨハニアの家も残されているが、この家は手が加えられている。

  奇跡を体験して、キリスト教徒になったパウロは熱心に布教活動を行なうが、今度はパウロが迫害されるようになる。パウロは東門と呼ばれる門から籠で運ばれてダマスカスを脱出する。

  この東門を見学していたとき、突然、アラブ人の少年が話しかけてきた。アラビア語なので、何を言っているか分からない。ヨルダンで物乞いの少年にしつこくつきまとわれて閉口していたので、相手にしなかったら、ジーパンのベルトに挟んであった銃をいきなり突きつけてきた。

  あたりを見回したら、30メートルほど離れたところに、軍服姿の兵隊が2人いた。走ると撃たれると思ったので、そちらにゆっくり歩いていくと、銃を構えて何やら叫びながらついてくる。

  兵隊のところに着くまで1分もかからなかったと思うが、永遠のように感じられた。兵隊に外交官パスポートを見せると、兵隊と少年が議論している。ようやく、理解されたらしく、解放された。英語がかろうじて通じる兵隊によると、少年に見えたアラブ人は秘密警察だった。あのとき走っていたら、撃たれていたに違いない。そう思ったら、途端に膝が震えだして、止まらなくなった。

  ダマスカス空港は、閉鎖されてから2日後に閉鎖が解かれ、無事、ローマに脱出することができた。ところが、ローマのホテルに着いてから、下痢が止まらず、2日間、寝込んでしまった。ダマスカスにいる間は、緊張感で何とか持ちこたえていたが、ローマに着いてほっとしたのだろう。生まれて初めて味わった死の恐怖で胃を壊したのである。

 
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